『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』

ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け

ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け

2週間前の朝、こんなtweetが流れてきた。

面白そうだなと思った。で、少し前に図書館で借りてきて、読み終わったところ。

オープンソースハードウェアという言葉を最近聞いたのは、7月のjaws勉強会で、動画「ラピュタの飛行石を作ってみた」(http://www.youtube.com/watch?v=tVVP8hKao4A)の久川さんの発表を聴いた時だ。飛行石はArduinoで作られていた。

しかし、この本はAuridinoの解説書ではない。

もっと広く、あらゆるものを作ろうとする世界中の取組みの話が紹介されている。

この本では、「誰が・何をつくったか」の章と「何のために・どのようにしてつくったか」の章が、セットで展開される。

MITの学生が、オウムのためのブラウザをつくった話とか、インドの路地裏のエンジニアが先進国のビデオ機器をリバースエンジニアリングする話とか、目新しい刺激的な話とともに、それらを支える技術の説明がある。原理の説明は、当該分野の基礎知識がなくても、ある程度理解できるレベルで平易に書かれている。レーザーカッターやウォーターカッターの解説は、機械工作の知識がない自分には新鮮だった。

ものづくりに関わる人たちのバックグラウンドや動機はさまざまだ。他の誰も必要としていなくても、自分が欲しいから作るという素直な欲求から、生きる上で必要だから、独学して何とか作るという切実な要求まで。

個人が、個人やコミュニティのために、自力でものをつくることが可能な世界になりつつあるということを、知ることができた。

(ポルコからブコメでネコを催促されたので追加)

学習と発明

ところで、自分は学生の頃、情報に軸足を置いて教育工学の真似事をしつつ、教員を目指して非常勤をやったり教員免許を取ったりしていた。

そのせいか、この本で人々の「学習」について書かれた部分に、非常に心を奪われた。

示唆に富んだエピソードを3つ抜粋する。

ジャストインタイム教育モデル

著者は、MITで「(ほぼ)あらゆる物をつくる方法」という講座を開いた。この講座で習得可能な設計と製造のスキルは、複雑で多岐に渡る。誰かがすべてについて学生に教えることはできない。そんな時、学生たち一人ひとりが、自分が習得した知識を、ほかの学生に伝道師のように教えはじめた。

これは、いつか知識が役に立つことを期待して、あらかじめ用意されたカリキュラムを教える従来の"ジャストインケース(万一に備える)"教育モデルではなく、必要が生じたときだけ教える"ジャストインタイム"教育モデルのようなプロセスと考えることができる。

一時期話題になった遅延評価学習法と似た話かもしれない。

必要が発明に果たす役割

牛乳や米の品質を計測する機器を、自ら発明して設計、製造するインドの人(カルバグ氏たち)と、「アイディアを持った個人が一人で何かを発明することは不可能」という態度をとったアメリカのICメーカーのエンジニアの話。

そこに反映されているのは、必要が発明に果たす役割の重要性だ。インドの農民と異なり、ICチップの設計者の場合は、米の値段や牛乳の品質に自分たちの生き残りがかかっているわけではない。
自分たちが消費する食物と利用するテクノロジーの両方を生産する必要があったカルバグと生徒たちにとって、計器の開発に利用できるツールへのアクセスは、サポートシステムに恵まれたエンジニアよりはるかに切実な問題だったのだ。

死活問題でない場合、自分で限界を作ってしまうのかもしれない。

また、一方で、「必要」が満ちたときに、発明に取り掛かればいいのではないか、という考え方もありうると思った。

最小干渉教育

デリーのオフィス街とスラム街の境で、壁に設置されたコンピュータの話。スラム街から触れることができるのは、画面とジョイスティックのみ。解説はなし。キーボードもなし。しかし、画面に群がったスラム街の子どもたちは、設置者(スガタ氏)が驚くほどの速度で、コンピュータに習熟した。

スガタは、この手法を「最小干渉教育」と呼んでいる。テクノロジーを教えるには山ほどの説明が必要で、あらゆる用語を現地の言語に翻訳する必要があるという想定を捨てて、彼はひたすら生徒の学習意欲をかき立てることに努めた。干渉を最小限にとどめることで、学校教育が対象としてこなかった生徒たちを導く方法を模索した。

子どもってすごい!

リベラルアート

本書に出てくる「リベラルアート」という言葉の説明が興味深い。

この場合の「リベラル」は(中略)、これら7つの学問を身に付けることでもたらされる人間性の「解放」を意味していた。一方、「アート」は(中略)、これらの分野をマスターすることで得られる広い意味の技能や知識のことを指していた。リベラルアートという言葉は、もともと、このように個人を解放する手段の学習という、人々を鼓舞するような意味合いを持っていた。

7つの学問というのは、中世の四学(幾何学、算術、天文学、音楽)と三学(文法、論理学、修辞学)のこと。

上の文章を読んで、ふと2つの別の著作物を連想した。

1つは、森博嗣氏の『創るセンス 工作の思考』だ。

創るセンス 工作の思考 (集英社新書)

創るセンス 工作の思考 (集英社新書)

作らない世代は、生きるセンスを持っていない世代だともいえる。あらゆる「既成の楽しさ」に囲まれて育ってきたゆえに、「与えられた楽しさ」に手一杯で、自分の楽しさを、自分の新しさを、作ることができない。

ここで書きたいのは、そういった大量生産、大量消費とは別の方向性である。もっとマニアックな価値、稀少な製品を産み出すための「工作のセンス」である。

もう1つは、分裂勘違い君劇場のエントリ。

いままでは、より美味しいモノを食べるには、「より多くお金を稼ぎ、高いレストランに行く」のが正しい戦略だった。
しかし、大増税時代においては、この戦略では、税負担が重すぎて疲弊してしまう。

増税時代においては、より美味しいモノを食べるには、自分で自炊の腕を磨き、自分で美味しい料理を作れるようにすることに時間とエネルギーを注ぎ込むことが正しい戦略となる。

2つの著作物の文脈は(特に後者はタイトルが示すとおり)『ものづくり革命』の文脈と異なる。しかし、ここで示された考え方は、「リベラルアート」という言葉の本来の概念と、類似性があるように感じた。

「自分でものを作ること」によって、森氏はエンジニアが工作センスを持てる可能性を、分裂勘違い君は人々が増税時代に豊かに生きることができることを、それぞれ説いている。

まあそんなかんじで

まとまらないけど。

自分にとっての「リベラルアート」とはなんぞやということや、それを獲得するために取りうる手段、ひいては、どうすれば愉しく豊かに生きていけるのだろうということを考えさせられた。

あと、自分が長らくビットの上でしか物を作っていないことを思い出した。絵をたまに描くけれど、あれは平面だから工作じゃないし。

何か作ってみようかな。